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桜雑感2006年03月27日 22時47分15秒

おうかていの桜

↑上の写真は、近くの公園に咲く桜です。この桜の木々は、わたしの幼いときにはありませんでした。もう20年以上前になると思いますが、細く頼りない木が、公園を縁取るように植えられました。たった20年くらいの間に、こんな大木になるなんて今でも信じられないくらいです。

今朝、出かける時間の都合で、早朝というわけにはいかず(7時40分頃)、独り占めすることはできませんでしたが、行ってみました。淡いかおりにつつまれながら、時間があった分、いろいろなことに思いをめぐらせました。

高校、大学時代に好きだった人と決定的に別れた春、バイト帰りに何度も夜に行きました。そのころは夜桜見物する人もまれでしたから、誰にもわたしと気づかれず、思う存分悲しめました。彼と別れたことよりも、恋を失った空虚感をどうすることもできず、涙もでないまま、立っていました。

卒業の春、本当に美しいと思いました。希望にもえて桜を観ました。

弟を失った翌年の桜を観たとき、なんで咲いているのと、桜が無意味に思えました。

わたし自身のことで絶望した春の桜を観たとき、予備校時代の友人の話を思い出しました。心に思うことがあるなら、それに向かって努力すれば、いずれは実になるということを、加速度ベクトルの話を例に、しずかに励ましてくれたことがありました。そして、もう一度努力しようと決心しました。

4年前の春分の日、駅でわたしとすれ違った母が、「今日、観ないと、この強風で散ってしまうわよ。」と教えてくれ、そのあしで観に行ったのもこの桜。この2ヶ月後に、この母が死んでしまうなんて、ぜんぜん思わなかった。母とよく観に行ったこの桜。

そして3年前に観に行ったときは、無感情で、美しいとも思いませんでした。まわりの喧騒も耳に入らなかったです。

去年は、美しいと思いながら観た桜。でも弟が使っていた自転車に乗って行ったら、その鍵を落としてしまったのです。何度も何度も探したけれど見つからずに、泣きたいくらいでした。翌日、もう一度探してみたら、見つかりました。奇跡でした。そしてこの日は母の誕生日でした。諦めてはだめよ、と母は言いたかったのかしらと思いました。

そして今日。母が隣にいるような気がしました。 亡くなった人にたいして、できるのは、花を手向けることでも墓参することでもないと思っています。これらは、生きている人の心に平安をもたらすためにすることだと。何もできることはないのだと思っていました。 けれど、この桜を観ながら、自分がちゃんと人生を大切に生きること、これがたったひとつだけ、生きている者ができることなのじゃないかと気づいたわたしでした。