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別れ ― 2018年12月18日 23時59分59秒
夕方、塾に付き添った姪たちを妹の家に送り届けたときのことでした。
妹が子どもたちを家に入れてから、ひとり玄関の外に出てきたので、何か言いたいことがあるのだなと察したのですが。
聴けば、妹のママ友Tさんが亡くなったことを、今聴いてきた、とのことでした。わたしも言葉を失いました。
Tさんと初めて会ったのは、もう十数年前のことでしょうか。わたしのホームプールのギャラリーでのことでした。当時年長だった姪っ子1号がプールで泳いでいるのを妹と見ているときでした。Tさんも自分の娘さん、息子さんが泳いでいるのを見学していました。その後、姪の通う幼稚園と同じ幼稚園に通っているとわかり、妹と運動会の係などを一緒にやり、妹とは協力的なママ友でした。姪たちが小学校にあがってからも。そして、姪たちの行事にはほぼ欠かさず参加するわたしとも挨拶を交わすだけにとどまらず、よく話す仲でした。私からすれば、「姪たちのいろいろな行事に参加するこのヘンな伯母」を、ばかにすることなく、認めてくれた心優しい知人でした。
そのTさんが、お子さん4人を残して、なぜ?秋の運動会でも、会って挨拶をしたように記憶しています。体調が悪かったようだとの話もありましたが、なんでそんなことになってしまったのだろう、どんなに心残りだったろうと考えてしましました。たくさんやり残したことがある彼女に、もう「今」はないなんて、信じられません。
人は人生の途中でいきなり終わりがくるもののように思います。わたしの単純な実感です。残酷です。
色白で、いつもにこやかで、かわいらしかったTさん、親しくしてくださって感謝しています。Tさんのことは忘れずに、ずっと胸にとどめておきたいと思います。
妹が子どもたちを家に入れてから、ひとり玄関の外に出てきたので、何か言いたいことがあるのだなと察したのですが。
聴けば、妹のママ友Tさんが亡くなったことを、今聴いてきた、とのことでした。わたしも言葉を失いました。
Tさんと初めて会ったのは、もう十数年前のことでしょうか。わたしのホームプールのギャラリーでのことでした。当時年長だった姪っ子1号がプールで泳いでいるのを妹と見ているときでした。Tさんも自分の娘さん、息子さんが泳いでいるのを見学していました。その後、姪の通う幼稚園と同じ幼稚園に通っているとわかり、妹と運動会の係などを一緒にやり、妹とは協力的なママ友でした。姪たちが小学校にあがってからも。そして、姪たちの行事にはほぼ欠かさず参加するわたしとも挨拶を交わすだけにとどまらず、よく話す仲でした。私からすれば、「姪たちのいろいろな行事に参加するこのヘンな伯母」を、ばかにすることなく、認めてくれた心優しい知人でした。
そのTさんが、お子さん4人を残して、なぜ?秋の運動会でも、会って挨拶をしたように記憶しています。体調が悪かったようだとの話もありましたが、なんでそんなことになってしまったのだろう、どんなに心残りだったろうと考えてしましました。たくさんやり残したことがある彼女に、もう「今」はないなんて、信じられません。
人は人生の途中でいきなり終わりがくるもののように思います。わたしの単純な実感です。残酷です。
色白で、いつもにこやかで、かわいらしかったTさん、親しくしてくださって感謝しています。Tさんのことは忘れずに、ずっと胸にとどめておきたいと思います。
困難は乗り越える為にあるのだよ ― 2008年12月20日 23時59分59秒
どーぞお仕事に没頭させてください、休日には決してしないで!と願っている日が、一年のうち、2日だけあって、まさに今日は、その2日のうちの1日。弟の命日。19年経っても、あの恐ろしい日を、時系列でシュミレーションしてしまうので。けれど、組織で動いている仕事。わたしの思うようには仕事をさせてくれなくて、今日は休日。
午前中、ちょっとした約束があって、弟の墓参はしませんでした。生きている人間が大事、と言い聞かせ。けれど、きちんと向き合わなければならないことから逃げている人の顔を見、それが何度も頭の中で浮かびました。何を感じとっている?大切な人だからこそ、何とかしたい、そういう思いをつっぱねる、そういう顔に見えました。
夕方、友人がうちに来てくれました。弟のことも知っているこの友人、わたしが『あの日』から、少しでも解放されるようにとの、毎年の彼女の配慮です。こういう友人がいるのは、わたしにとってありがたいもの。頑張りたいと思わせてくれる。
人はそれぞれ。
午前中、ちょっとした約束があって、弟の墓参はしませんでした。生きている人間が大事、と言い聞かせ。けれど、きちんと向き合わなければならないことから逃げている人の顔を見、それが何度も頭の中で浮かびました。何を感じとっている?大切な人だからこそ、何とかしたい、そういう思いをつっぱねる、そういう顔に見えました。
夕方、友人がうちに来てくれました。弟のことも知っているこの友人、わたしが『あの日』から、少しでも解放されるようにとの、毎年の彼女の配慮です。こういう友人がいるのは、わたしにとってありがたいもの。頑張りたいと思わせてくれる。
人はそれぞれ。
曇天の御茶ノ水 ― 2007年12月28日 23時59分59秒
実は昨日に続き、今日も、2日続きで、御茶ノ水まで用事があって行って来ました。わたしは、この御茶ノ水の神田川に架かる『聖橋(ひじりばし)』が好きです。これにはいろいろ理由があるんだけれどそれはさておき、この聖橋は、JR御茶ノ水駅のホームにその橋げたが架かっていて、学生時代は、ココでのりかえるとき、かならず、ホームにある橋げたのアーチをくぐっていました。
昨日は、久しぶりの御茶ノ水。好きな聖橋を渡って、本郷方面に行きました。今日は、そのひとつ四ツ谷寄りにある『御茶ノ水橋』を渡ったのですが、ふと、右を見たら、好きな聖橋が、それはよくよく見えました。あの、アーチ型の橋げたも。古いけど、美しいと思いながら、ふと、あることを考えました。
自分の関心あること、好きなことというものは、近づいてしまうあまり、あるいは、その渦中にあるあまり、その本質がよく見えないということはよくあることです。でも、ちょっと離れてみると、全体がよく見える。ああ、そういうことなんだと。
目下の悩み、苦しみは、いろいろあって尽きないけれども、少し離れて考えてみようと思いました。正常時なら、ごくごく当たり前のことなのだけれど、わたしはどうやら正常な状態になく、そのことを忘れていて、今日気付いた次第。そして、できたら少し放念したいと思います。
昨日は、久しぶりの御茶ノ水。好きな聖橋を渡って、本郷方面に行きました。今日は、そのひとつ四ツ谷寄りにある『御茶ノ水橋』を渡ったのですが、ふと、右を見たら、好きな聖橋が、それはよくよく見えました。あの、アーチ型の橋げたも。古いけど、美しいと思いながら、ふと、あることを考えました。
自分の関心あること、好きなことというものは、近づいてしまうあまり、あるいは、その渦中にあるあまり、その本質がよく見えないということはよくあることです。でも、ちょっと離れてみると、全体がよく見える。ああ、そういうことなんだと。
目下の悩み、苦しみは、いろいろあって尽きないけれども、少し離れて考えてみようと思いました。正常時なら、ごくごく当たり前のことなのだけれど、わたしはどうやら正常な状態になく、そのことを忘れていて、今日気付いた次第。そして、できたら少し放念したいと思います。
ふとした瞬間にママが恋しくなる ― 2007年12月25日 23時59分59秒
何だか、3日も続けて午前様になってしまいました。決して楽しいことばかりではないのだけど。まあ、暮だし、仕方ないと自分でいいきかせています。
午前中は、家で仕事。休日出勤した分、お休みなのだけど、やっぱり家でお仕事。わたしの仕事は、暮とか、お盆とか、そういうことにほとんど関係がないのですが、ここにきて、たまたま、重要でしかも慎重を要する仕事が重なってしまいました。
午後も仕事をして、夕方はでかけて、予備校時代の友人4人(含わたし)で、日比谷で夕食会。今月は忘年会も兼ねて。このところ、人から誹謗中傷めいたことをされ、たぶん誤解もされて、ちょっと嫌な気分で過ごしてきたけれど、そんな中でも、3日続けて、仕事もよくしたし、プールでも遊び、このいちばん楽しみな4人の会もできました。この予備校時代の友人たちといるときが、いちばん自分をさらけ出せる。そして、わたしも彼らと同様、もっともっと勉強して、小さなことにくよくよせず、頑張らなくてはと思う。
よく彼らと話すのです、齢がいくつになっても、勉強したいと思うことがあること、勉強する意欲があること、勉強できる環境にあることって、本当に幸せなことだと。このうち、大人になると、「環境」だけは、自分で作り出すものなのですが、意欲さえあればできるものです。
そういえば、ここ3日間、まとまった考え事をする余裕もないなか、断片的に、ぼんやりと、わけのわからないことを考えていました。ある3日間のあいだに、わたしについて、同じような意味のことをまったく別の人やグループから言われました。
「プールに入ると、(わたしは)普段と違う人みたい。なんか、めちゃくちゃ真剣。コワイ感じ。」
・・・・・・これは、別に、イヤということはない。人間なんて、たぶんそういうもの。状況によって、変わるものだと思う。
また、よく挨拶する人で、ちょっと前に一緒に泳ぎ、100本大会でも一緒に泳いだ人たちから、打ち上げのとき、わたしのことを、「あの人誰?」と誰かに聴いたそうです。
わたしにとっては、陸にいるときも、プールにいるときも、全部同じ人格をもつ一連のわたしなんだけど、他人はそう見ないみたいです。
ということと、もうひとつは、たぶんメイクのせい。まあ、わたしは、できる限り、フルメイクのお化粧をして歩きます。どんなときもといいたいけど、できる限り。それには理由があるんです。母がとてもきれいな人だったから。母が事故で亡くなり、まだ身元がわからなかったときのことを、警察官の方が教えてくれました。
警「おかあさん、とても若くて綺麗な人だったね。わたしたちは、お母さんの身元がまだわからなかったとき、40歳台前半の女性、と言って、事故処理をしていたんだよ。本当に、若くて綺麗だったね。」母はそのとき、69歳でした。
その後、わたしは哀しくなったとき、もう、物事がどうでもいいやと思えたとき、鏡に向かって、あえて、お化粧してみました。母もまた、息子の死の悲しみを味わい、それでも、心だけでもきちんと生きようとしていたに違いない、それが彼女の、表面的なことでない、内面の若さと美しさにつながったのではないかと。わたしなどは、母のように、心も美しくとは、なかなかいかない。わたしがしているのは、単なる表面的なことで、わたし自身ではないこともわかっています。だから、わたしがあまり好きでない言葉「色っぽい。」と評される。でも、何とか、心の美しさで母に近づきたいと思っています。
午前中は、家で仕事。休日出勤した分、お休みなのだけど、やっぱり家でお仕事。わたしの仕事は、暮とか、お盆とか、そういうことにほとんど関係がないのですが、ここにきて、たまたま、重要でしかも慎重を要する仕事が重なってしまいました。
午後も仕事をして、夕方はでかけて、予備校時代の友人4人(含わたし)で、日比谷で夕食会。今月は忘年会も兼ねて。このところ、人から誹謗中傷めいたことをされ、たぶん誤解もされて、ちょっと嫌な気分で過ごしてきたけれど、そんな中でも、3日続けて、仕事もよくしたし、プールでも遊び、このいちばん楽しみな4人の会もできました。この予備校時代の友人たちといるときが、いちばん自分をさらけ出せる。そして、わたしも彼らと同様、もっともっと勉強して、小さなことにくよくよせず、頑張らなくてはと思う。
よく彼らと話すのです、齢がいくつになっても、勉強したいと思うことがあること、勉強する意欲があること、勉強できる環境にあることって、本当に幸せなことだと。このうち、大人になると、「環境」だけは、自分で作り出すものなのですが、意欲さえあればできるものです。
そういえば、ここ3日間、まとまった考え事をする余裕もないなか、断片的に、ぼんやりと、わけのわからないことを考えていました。ある3日間のあいだに、わたしについて、同じような意味のことをまったく別の人やグループから言われました。
「プールに入ると、(わたしは)普段と違う人みたい。なんか、めちゃくちゃ真剣。コワイ感じ。」
・・・・・・これは、別に、イヤということはない。人間なんて、たぶんそういうもの。状況によって、変わるものだと思う。
また、よく挨拶する人で、ちょっと前に一緒に泳ぎ、100本大会でも一緒に泳いだ人たちから、打ち上げのとき、わたしのことを、「あの人誰?」と誰かに聴いたそうです。
わたしにとっては、陸にいるときも、プールにいるときも、全部同じ人格をもつ一連のわたしなんだけど、他人はそう見ないみたいです。
ということと、もうひとつは、たぶんメイクのせい。まあ、わたしは、できる限り、フルメイクのお化粧をして歩きます。どんなときもといいたいけど、できる限り。それには理由があるんです。母がとてもきれいな人だったから。母が事故で亡くなり、まだ身元がわからなかったときのことを、警察官の方が教えてくれました。
警「おかあさん、とても若くて綺麗な人だったね。わたしたちは、お母さんの身元がまだわからなかったとき、40歳台前半の女性、と言って、事故処理をしていたんだよ。本当に、若くて綺麗だったね。」母はそのとき、69歳でした。
その後、わたしは哀しくなったとき、もう、物事がどうでもいいやと思えたとき、鏡に向かって、あえて、お化粧してみました。母もまた、息子の死の悲しみを味わい、それでも、心だけでもきちんと生きようとしていたに違いない、それが彼女の、表面的なことでない、内面の若さと美しさにつながったのではないかと。わたしなどは、母のように、心も美しくとは、なかなかいかない。わたしがしているのは、単なる表面的なことで、わたし自身ではないこともわかっています。だから、わたしがあまり好きでない言葉「色っぽい。」と評される。でも、何とか、心の美しさで母に近づきたいと思っています。
何とか過ごせた日 ― 2007年12月20日 23時59分59秒
今週はただでも出勤日数が少ないのに、今日もいろいろな加減で家仕事。選りによって、365日のうち、何が何でも、たとえ地球の果てに行っても外で仕事をしたいたった2日間のうちの、いち日だったのに。
今日は弟の祥月命日でした。もう長い年月がたっているのに、わたしは乗り越えられず、18年前のあのおそろしい出来事を、時系列でシュミレーションしてしまうのです。18年前の今の時間、彼はまだ生きていた、わたしはこの時間こうしていた、とか。
わたしは、普段はできるのだけど、今日のような日は、彼に手を合わせることができない。愛する人の死を、認め、受け入れるところから、次が始まるというけれど、わたしに言わせれば、そんなのは、愛する人の考えられない最期を経験したことがない人か、他人のことだから言えるのか、何かの教科書に書いてある模範解答・・・・・・せいぜいそんなとこなんだと思う。そんなこたえをするよりも、ただただ、気持ちだけ寄り添っていてくれればいいのに。
そういうわけで、家でひとりだったわたしは、彼がいたころから弾いていた曲で、彼も当然聴いているはずのピアノの曲を1曲弾くことにしました。それで泣いたり悲しんだりするのは今日はおしまいと思って。彼はよく、ニューミュージックを自分で弾いていたので、その曲が特別好きだったということは聴いたことはないのだけど。わたしの大好きな曲、それを弾くと、彼を思いだせる曲を1曲だけ。ショパンの夜想曲(ノクターン)9-2。彼の無念を思い、彼のために弾きました。久しぶりにピアノに触れました。彼に届いてくれていればいい。
もう、これ以上の時間のシュミレーションには耐えられなかったし、今日は、わたしの大好きなプールのコーチが、マスターズでもしかしたら最後のレッスンになってしまうかもしれないと思って、それに出かけました。レッスン中に彼の最期の時間を向かえるので、きっと泳ぐので苦しくて、忘れていられるとも思いました。
大好きなコーチは、個人的にお付き合いすると、とても繊細で感受性が強く、かわいらしい感じなのだけれど、やっぱり水着を着て、プールに入ると、違う人みたい。とても強く見える。わたしはそういうコーチも好き。わたしも、この彼女のようにありたい。
今日は25m76回というメニューで、途中苦しそうなところもあるので、なんだかほっとしました。でも、ふとした瞬間に時計を見てしまったわたし。13時17分。彼の時間。一瞬、ふらついてしまったけれど、次はわたしの好きなバタフライで泳ぐことになっていたので、心の中で言いました。
『あっちゃん、見てて!おねーちゃん、結構イケてると思うけど。』
文字通り、歯をくいしばって、泣かないようにして泳ぎました。ダッシュで。
そうだった、彼も幼い頃からこのプールで泳ぎ、大学に入ってからは水泳部に所属し、東医体大会などでは、背泳を泳いでいました。部で作った彼の大きな紫のダウンがあって、わたしもその気になったとき、それを着ようと思っています。
終わって、次があるかのようなコーチの今年最後のご挨拶。ちょっとセンチメンタルになりました。
プールから出て、さて、どうしたものかと思ったのですが、毎年弟の祥月命日にかかさずうちにお参りにきてくれる、弟とわたしがアルバイトをしていた塾での教え子だった“ちなつちゃん”からメールが入りました。
「今日、先生のうちにうかがいたかったのだけど、インフルエンザにかかってしまって、行かれないの。わたしのかわりに、(弟に)手を合わせておいてください。治ったら行きます。」
実家が遠いし、幼い子がいて、誰も頼れない彼女なので、これは大変と思って、その足で買い物をして、大急ぎで家に帰り、いろいろ体に良さそうなものを作って、彼女の家に持って行きました。そっと玄関の扉においてこようと思って。ところが、オートロックのマンションだということを忘れていたわたし。病院でも行ったのか、彼女は留守で、不審者に思われ、仕方なく電話をしたのですが、出ない・・・・・・。これではしょうがないと諦め、再び帰ったのですが、家の近くまできたら、彼女からでんわがあって、結局戻り、無事、おかずを渡せました。
おかずのひとつにかぼちゃの煮物をしましたが、これは特に喜んでくれました。彼女はいつも言うのです。「わたしが、困ったとき、こうしたいと思ったとき、いつも、先生(わたし)の方から、電話やメールがあったり、先生が来てくれる。先生、ホントにすごい!」って。実は、かぼちゃが食べたくて、買い物に行っていた留守に、わたしが行ってしまったようで、作らずに食べられてよかったといってくれました。
ショパンのノクターンと、プールの大好きなコーチと、ちなつちゃんのお陰で、恐れていた今日も、なんとかすごすことができました。
さっき気付いたのですが、このブログを始めて、丸2年が経ちました。読んでくださっている方のお陰で続けられています。ありがとうございます。
今日は弟の祥月命日でした。もう長い年月がたっているのに、わたしは乗り越えられず、18年前のあのおそろしい出来事を、時系列でシュミレーションしてしまうのです。18年前の今の時間、彼はまだ生きていた、わたしはこの時間こうしていた、とか。
わたしは、普段はできるのだけど、今日のような日は、彼に手を合わせることができない。愛する人の死を、認め、受け入れるところから、次が始まるというけれど、わたしに言わせれば、そんなのは、愛する人の考えられない最期を経験したことがない人か、他人のことだから言えるのか、何かの教科書に書いてある模範解答・・・・・・せいぜいそんなとこなんだと思う。そんなこたえをするよりも、ただただ、気持ちだけ寄り添っていてくれればいいのに。
そういうわけで、家でひとりだったわたしは、彼がいたころから弾いていた曲で、彼も当然聴いているはずのピアノの曲を1曲弾くことにしました。それで泣いたり悲しんだりするのは今日はおしまいと思って。彼はよく、ニューミュージックを自分で弾いていたので、その曲が特別好きだったということは聴いたことはないのだけど。わたしの大好きな曲、それを弾くと、彼を思いだせる曲を1曲だけ。ショパンの夜想曲(ノクターン)9-2。彼の無念を思い、彼のために弾きました。久しぶりにピアノに触れました。彼に届いてくれていればいい。
もう、これ以上の時間のシュミレーションには耐えられなかったし、今日は、わたしの大好きなプールのコーチが、マスターズでもしかしたら最後のレッスンになってしまうかもしれないと思って、それに出かけました。レッスン中に彼の最期の時間を向かえるので、きっと泳ぐので苦しくて、忘れていられるとも思いました。
大好きなコーチは、個人的にお付き合いすると、とても繊細で感受性が強く、かわいらしい感じなのだけれど、やっぱり水着を着て、プールに入ると、違う人みたい。とても強く見える。わたしはそういうコーチも好き。わたしも、この彼女のようにありたい。
今日は25m76回というメニューで、途中苦しそうなところもあるので、なんだかほっとしました。でも、ふとした瞬間に時計を見てしまったわたし。13時17分。彼の時間。一瞬、ふらついてしまったけれど、次はわたしの好きなバタフライで泳ぐことになっていたので、心の中で言いました。
『あっちゃん、見てて!おねーちゃん、結構イケてると思うけど。』
文字通り、歯をくいしばって、泣かないようにして泳ぎました。ダッシュで。
そうだった、彼も幼い頃からこのプールで泳ぎ、大学に入ってからは水泳部に所属し、東医体大会などでは、背泳を泳いでいました。部で作った彼の大きな紫のダウンがあって、わたしもその気になったとき、それを着ようと思っています。
終わって、次があるかのようなコーチの今年最後のご挨拶。ちょっとセンチメンタルになりました。
プールから出て、さて、どうしたものかと思ったのですが、毎年弟の祥月命日にかかさずうちにお参りにきてくれる、弟とわたしがアルバイトをしていた塾での教え子だった“ちなつちゃん”からメールが入りました。
「今日、先生のうちにうかがいたかったのだけど、インフルエンザにかかってしまって、行かれないの。わたしのかわりに、(弟に)手を合わせておいてください。治ったら行きます。」
実家が遠いし、幼い子がいて、誰も頼れない彼女なので、これは大変と思って、その足で買い物をして、大急ぎで家に帰り、いろいろ体に良さそうなものを作って、彼女の家に持って行きました。そっと玄関の扉においてこようと思って。ところが、オートロックのマンションだということを忘れていたわたし。病院でも行ったのか、彼女は留守で、不審者に思われ、仕方なく電話をしたのですが、出ない・・・・・・。これではしょうがないと諦め、再び帰ったのですが、家の近くまできたら、彼女からでんわがあって、結局戻り、無事、おかずを渡せました。
おかずのひとつにかぼちゃの煮物をしましたが、これは特に喜んでくれました。彼女はいつも言うのです。「わたしが、困ったとき、こうしたいと思ったとき、いつも、先生(わたし)の方から、電話やメールがあったり、先生が来てくれる。先生、ホントにすごい!」って。実は、かぼちゃが食べたくて、買い物に行っていた留守に、わたしが行ってしまったようで、作らずに食べられてよかったといってくれました。
ショパンのノクターンと、プールの大好きなコーチと、ちなつちゃんのお陰で、恐れていた今日も、なんとかすごすことができました。
さっき気付いたのですが、このブログを始めて、丸2年が経ちました。読んでくださっている方のお陰で続けられています。ありがとうございます。
どうやってもハッピーには戻れない ― 2007年12月16日 22時07分57秒
ゆうべから今朝にかけても、結局ほとんど眠れない夜を過ごしました。ときどき、おなか、というか、たぶん胃が痛くなって、戻してしまうの繰り返し。ほとんど何も食べていないのに、気持ちが悪くなってしまいました。
午前中、妹のところに用事があって、少しだけ行ってきました。姪っ子たちもいたけれど、どうしても、いつものように元気になれない。何かヘンだと気付いたのでしょうか、帰りに妹だけが玄関まで送ってくれたのですが、理由はいえなかったものの、妹と別の件で話していて、どんどん涙があふれてきてしまいました。そのうち、姪っ子Ⅰ号が、なかなか部屋に戻らない妹を見にきたので、大急ぎで涙をひっこめ、帰りました。
午後、自宅でひとりになれたとき、もう、こらえていたものがあふれてきて、声を上げて泣きました。どうして涙がでるか、自分でも理由はわかっているような、詳細にはわからないような。でも、2分もしないうち、妹一家が尋ねてきました。近所の神社でお餅つきをしていて、そこでいただいたのを持ってきてくれたのですが、これは明らかに、義弟と妹がわたしを心配しているのでした。いつもはおとなしくてあまり口数の多いほうではない義弟が、なんだかんだとわたしに話をしてくれました。わたしも、泣いていた本当の理由は言えなかったけれど、家族の温かさだけは身に沁みました。
泣いてもはじまらない。けれど、もう、やり直すなんていうことができないような気がするのです。そんな中、気づけば、亡弟と最後に電話で話をしてから、今日で丸18年が経ってしまいました。悲しいことばかり捜して、気持ちがぐちゃぐちゃになっています。
午前中、妹のところに用事があって、少しだけ行ってきました。姪っ子たちもいたけれど、どうしても、いつものように元気になれない。何かヘンだと気付いたのでしょうか、帰りに妹だけが玄関まで送ってくれたのですが、理由はいえなかったものの、妹と別の件で話していて、どんどん涙があふれてきてしまいました。そのうち、姪っ子Ⅰ号が、なかなか部屋に戻らない妹を見にきたので、大急ぎで涙をひっこめ、帰りました。
午後、自宅でひとりになれたとき、もう、こらえていたものがあふれてきて、声を上げて泣きました。どうして涙がでるか、自分でも理由はわかっているような、詳細にはわからないような。でも、2分もしないうち、妹一家が尋ねてきました。近所の神社でお餅つきをしていて、そこでいただいたのを持ってきてくれたのですが、これは明らかに、義弟と妹がわたしを心配しているのでした。いつもはおとなしくてあまり口数の多いほうではない義弟が、なんだかんだとわたしに話をしてくれました。わたしも、泣いていた本当の理由は言えなかったけれど、家族の温かさだけは身に沁みました。
泣いてもはじまらない。けれど、もう、やり直すなんていうことができないような気がするのです。そんな中、気づけば、亡弟と最後に電話で話をしてから、今日で丸18年が経ってしまいました。悲しいことばかり捜して、気持ちがぐちゃぐちゃになっています。
プール行かなくても平気だった ― 2007年12月04日 23時03分38秒
ゆうべ、叔父から電話があって、今月中に、夕飯を食べに行くよ、と言っていました。8月に妻である義叔母を亡くし、心の落胆はいかばかりかと思うあまり、声をかけられずにいて。電話をもらってよかったです。生前、義叔母が、リハビリの為に絵を描いていたようで、そのうちの2枚をもらっています。一枚は、わたしの大好きな桜の絵。大胆な構図で、ほんわりしていた義叔母の印象とは違ったのですが、その力強さに魅かれました。桜という花は、凡人のわたしでも、ちょっと哲学的になってしまうもので、あれだけ心和ませる色、姿なのだけど、本当は力強い花なのかもしれない。もう一枚は、なんと、丸々1個の白菜の絵で、これは、冬の間、食卓の見えるところに飾ろうと思っていました。お鍋をするときに、見たい。義叔母も一緒にいるような気持ちになれるし。この白菜の絵に向かって、わたしはよく、話しかけています。
首は相変わらずです。痛み止めや筋肉を和らげる薬を飲んで、やっと痛みを忘れている程度。ゴチゴチに固まっています。ことにこの寒さでは、よくなりようがありません。今日は、両肘のところまでしびれています。シップ薬が出ましたが、首も回らず、腕も上がらないほど凝っていることもあり、うまく貼れません。イヤでもひとりを実感するとき。
今夜は、ちょっと涙がでてしまいました。わけもなく、哀しいときがあるものです。
首は相変わらずです。痛み止めや筋肉を和らげる薬を飲んで、やっと痛みを忘れている程度。ゴチゴチに固まっています。ことにこの寒さでは、よくなりようがありません。今日は、両肘のところまでしびれています。シップ薬が出ましたが、首も回らず、腕も上がらないほど凝っていることもあり、うまく貼れません。イヤでもひとりを実感するとき。
今夜は、ちょっと涙がでてしまいました。わけもなく、哀しいときがあるものです。
駄句に震えた朝 ― 2007年09月05日 23時59分59秒
昨夜はまんじりともせず、亡くなった義叔母のこともだけれど、叔父のことを考えていました。とても仲のよい夫婦で、60歳をすぎても新婚夫婦のようだった二人ですから、叔父の落胆はどんなだったろうと思ったり、それとは別の、不安な感じがわたしを支配していました。
朝、叔父からの葉書をもう一度読みました。そこには国文学者らしく、彼が駄句という俳句も詠んでありました。内容は、次の世もまた一緒に暮らすことを約束した彼らが、三途の川のところで夕涼みをしながら待ち合わせするという句だったのですが、それをあらためて読んだ瞬間、あることに気づいたわたしは急に不安になり、しばらくそっとしておこうと思った叔父の携帯に、震える手で電話をかけました。電話に出て、出て!という強い思い。叔父の声が聴こえました。叔父の声が聴こえた安堵感で、泣きながら、挨拶もできないまま、
わたし 「おじちゃん、わたし、しばらくそっとしておこうと思ったんだけど、今朝、急に、心配になっちゃって、電話したの。」声も手も震えていました。
叔父 「葉書が着いたんだね。」
わたし 「あのね、あのね、『夕涼み』って、何年か先のことだよね?何年か先に、おばちゃんと待ち合わせするってことだよね?」と、子供みたいにしゃくりあげ、泣きながら、それだけ言うのが精一杯でした。
わたしの言う意味をすぐにわかった叔父は、笑みさえ浮かべたような落ち着いた声で、
叔父 「そうだよ。何年か先のことだよ。5年か10年か15年かもっとか、わからないけど、何年か先のこと。おまえ、心配してくれて、ありがとなー。」
わたしがいくつになっても、いつも彼はわたしのことを子ども扱い。子どもに話すようなやさしいいつもの口調で話されて、わたしもやっと安心しました。
夏の季語の「夕涼み」。2人セットでしか考えられないような夫婦だったので、その夕涼みを、叔父は無理やり今年にするんじゃないかと、わたしは早合点してしまったのでした。叔父がそんなことするハズないのに、バカだ、わたし。しかし、彼も学者だから、もっと深い意味があるんだろうけど、わたしみたいなワカランチンに送ってくる俳句としては、確かに駄句。
朝はこんなスタートをしました。夜は叔父の方から電話があり、ゆっくり義叔母の話しをし、あらためて、もう、義叔母がこの世にいないことを認識し、その寂しさに涙しました。
そしてもうひとつ。こんなときに、こんなことを思うなんて、不謹慎以外のなにものでもないという思いをしながらも、あの世でも一緒に暮らす約束をし、三途の川で待ち合わせなんていう強い絆で結ばれる人を、見出す努力をしていないわたし。自分の思いを優先し、人の思いに気付いていながらそれを拒絶しているわたしは、そうやって、自分にとって大切なのかもしれない人ときちんと向き合う努力をしていないのかもしれないと、何だかそんなふうに思えてきました。
朝、叔父からの葉書をもう一度読みました。そこには国文学者らしく、彼が駄句という俳句も詠んでありました。内容は、次の世もまた一緒に暮らすことを約束した彼らが、三途の川のところで夕涼みをしながら待ち合わせするという句だったのですが、それをあらためて読んだ瞬間、あることに気づいたわたしは急に不安になり、しばらくそっとしておこうと思った叔父の携帯に、震える手で電話をかけました。電話に出て、出て!という強い思い。叔父の声が聴こえました。叔父の声が聴こえた安堵感で、泣きながら、挨拶もできないまま、
わたし 「おじちゃん、わたし、しばらくそっとしておこうと思ったんだけど、今朝、急に、心配になっちゃって、電話したの。」声も手も震えていました。
叔父 「葉書が着いたんだね。」
わたし 「あのね、あのね、『夕涼み』って、何年か先のことだよね?何年か先に、おばちゃんと待ち合わせするってことだよね?」と、子供みたいにしゃくりあげ、泣きながら、それだけ言うのが精一杯でした。
わたしの言う意味をすぐにわかった叔父は、笑みさえ浮かべたような落ち着いた声で、
叔父 「そうだよ。何年か先のことだよ。5年か10年か15年かもっとか、わからないけど、何年か先のこと。おまえ、心配してくれて、ありがとなー。」
わたしがいくつになっても、いつも彼はわたしのことを子ども扱い。子どもに話すようなやさしいいつもの口調で話されて、わたしもやっと安心しました。
夏の季語の「夕涼み」。2人セットでしか考えられないような夫婦だったので、その夕涼みを、叔父は無理やり今年にするんじゃないかと、わたしは早合点してしまったのでした。叔父がそんなことするハズないのに、バカだ、わたし。しかし、彼も学者だから、もっと深い意味があるんだろうけど、わたしみたいなワカランチンに送ってくる俳句としては、確かに駄句。
朝はこんなスタートをしました。夜は叔父の方から電話があり、ゆっくり義叔母の話しをし、あらためて、もう、義叔母がこの世にいないことを認識し、その寂しさに涙しました。
そしてもうひとつ。こんなときに、こんなことを思うなんて、不謹慎以外のなにものでもないという思いをしながらも、あの世でも一緒に暮らす約束をし、三途の川で待ち合わせなんていう強い絆で結ばれる人を、見出す努力をしていないわたし。自分の思いを優先し、人の思いに気付いていながらそれを拒絶しているわたしは、そうやって、自分にとって大切なのかもしれない人ときちんと向き合う努力をしていないのかもしれないと、何だかそんなふうに思えてきました。
明日はまた新しい日 ― 2007年05月30日 23時59分59秒
天気予報によると、ときに雷雨になるというものだったけれど、日中は、晴れているのに雨が降ったり、すぐに止んだり、とても変なお天気でした。
例の、よく食事会をする予備校時代の男性の友人の一人に、「ちょっと教えてもらいたいことがあるから、できたら昼休み、空けて欲しい。」と、朝、電話がありました。わたしたちは、男性2人女性2人の勉強仲間で、男性は2人とも既婚、わたしたち女性は未婚のグループ。そういうこともあって、別にはっきりそうと決めたわけではないけれど、会うときは4人でしか会わないのが暗黙の了解なのですが、仕事上のコトらしいので、すぐにOKし、お昼休みに日比谷公園の松本楼で待ち合わせることにしました。
行ってみたら、もうひとりの男性の友人も来ていました。とにかく3人でランチをしながら、わたしの仕事でわかるだけのことは、教え、アドバイス。でも、不思議だったのは、彼の持ってきた話が、急でも何でもなかったことと、一緒に居たもうひとりの友人が同席する話ではなかったことでした。
でも、帰り際、彼らがくれた一言で、わかりました。「おい、いつもより元気ねーぞ。午後はしっかり仕事しろよ。」 「とにかく、くじけそうになったら、勉強と仕事に逃げろよ。」
・・・・・・彼らは、わたしに、今日、少しでも悲しい思いをさせないように、仕事が空き、わたしが考えごとをしそうな昼休みを付き合ってくれたのでした。医師をしている女友達は、勤務地も遠いし、時間も自由が効かないので、比較的時間に自由が効く彼らが来たのでしょう。公園から職場に帰る途中、彼らの気持ちが有難くてホロリとしそうでしたが、泣いてしまうと収拾がつかなくなるので、懸命に我慢しました。わたしはいい友達を持っています。
午後は懸命に仕事。5年前の時系列のシュミレーションをしている余裕がなく、ちょうど良かったです。仕事を終え、あとはプールに逃げようと、ものすごい勢いで帰ってきました。
20時ごろにはプールへ。友人に教えてもらったバックの練習は欠かさずしています。20時半からは大好きなA先生のマスターズクラス。ストロークドリルまでは普段どおりにやりました。その後、400メートル個人メドレーの課題・・・・・・。
始める前から、わたしには、これは絶対にできないことはわかっていました。先頭の人に抜かされたり、苦手な泳ぎをフリーに替えたりして250メートルまでは泳ぎましたが、後ろの人に足をさわられた瞬間、もうダメだと思い、断念。足を触られたのが契機になっただけです。そしてクラスもエスケープ。サウナにひとりで入った瞬間、緊張の糸が切れてしまったように、涙があふれてきました。
はじめは、泳ぎきれなかった悔しい気持ちがそうなったのだろうと思ったのですが、考えてみればそれだけではなかったと思う。今日、いちにち、本当にこらえていました。母のこと、あの日のこと。それが、泳ぎをやめた瞬間に、全部緩んでしまったのだと思います。こういう日もある、しょうがないと思いました。
わたしは毎朝晩、母の事故現場を自転車で通ります。そこを避けて駅まで行く道もありますが、わたしはこの5年間、それをしませんでした。はじめのうちは、加害者の嘘を証明するために、敢えて通り、嘘は証明されました。いまは、毎朝、「ママ、今日も気をつけて行ってきます。」、晩には「ママ、ただいま。もう少しだけど、気をつけて帰ります。」と心の中で言って通ります。明日も明後日も、ずっとそうしようと思っています。
例の、よく食事会をする予備校時代の男性の友人の一人に、「ちょっと教えてもらいたいことがあるから、できたら昼休み、空けて欲しい。」と、朝、電話がありました。わたしたちは、男性2人女性2人の勉強仲間で、男性は2人とも既婚、わたしたち女性は未婚のグループ。そういうこともあって、別にはっきりそうと決めたわけではないけれど、会うときは4人でしか会わないのが暗黙の了解なのですが、仕事上のコトらしいので、すぐにOKし、お昼休みに日比谷公園の松本楼で待ち合わせることにしました。
行ってみたら、もうひとりの男性の友人も来ていました。とにかく3人でランチをしながら、わたしの仕事でわかるだけのことは、教え、アドバイス。でも、不思議だったのは、彼の持ってきた話が、急でも何でもなかったことと、一緒に居たもうひとりの友人が同席する話ではなかったことでした。
でも、帰り際、彼らがくれた一言で、わかりました。「おい、いつもより元気ねーぞ。午後はしっかり仕事しろよ。」 「とにかく、くじけそうになったら、勉強と仕事に逃げろよ。」
・・・・・・彼らは、わたしに、今日、少しでも悲しい思いをさせないように、仕事が空き、わたしが考えごとをしそうな昼休みを付き合ってくれたのでした。医師をしている女友達は、勤務地も遠いし、時間も自由が効かないので、比較的時間に自由が効く彼らが来たのでしょう。公園から職場に帰る途中、彼らの気持ちが有難くてホロリとしそうでしたが、泣いてしまうと収拾がつかなくなるので、懸命に我慢しました。わたしはいい友達を持っています。
午後は懸命に仕事。5年前の時系列のシュミレーションをしている余裕がなく、ちょうど良かったです。仕事を終え、あとはプールに逃げようと、ものすごい勢いで帰ってきました。
20時ごろにはプールへ。友人に教えてもらったバックの練習は欠かさずしています。20時半からは大好きなA先生のマスターズクラス。ストロークドリルまでは普段どおりにやりました。その後、400メートル個人メドレーの課題・・・・・・。
始める前から、わたしには、これは絶対にできないことはわかっていました。先頭の人に抜かされたり、苦手な泳ぎをフリーに替えたりして250メートルまでは泳ぎましたが、後ろの人に足をさわられた瞬間、もうダメだと思い、断念。足を触られたのが契機になっただけです。そしてクラスもエスケープ。サウナにひとりで入った瞬間、緊張の糸が切れてしまったように、涙があふれてきました。
はじめは、泳ぎきれなかった悔しい気持ちがそうなったのだろうと思ったのですが、考えてみればそれだけではなかったと思う。今日、いちにち、本当にこらえていました。母のこと、あの日のこと。それが、泳ぎをやめた瞬間に、全部緩んでしまったのだと思います。こういう日もある、しょうがないと思いました。
わたしは毎朝晩、母の事故現場を自転車で通ります。そこを避けて駅まで行く道もありますが、わたしはこの5年間、それをしませんでした。はじめのうちは、加害者の嘘を証明するために、敢えて通り、嘘は証明されました。いまは、毎朝、「ママ、今日も気をつけて行ってきます。」、晩には「ママ、ただいま。もう少しだけど、気をつけて帰ります。」と心の中で言って通ります。明日も明後日も、ずっとそうしようと思っています。
時には泣きたいこともある ― 2007年05月29日 23時40分50秒
昨夜寝るときに、母のことを考えていました。ちょうど夏の気配を感じて、世の中が活動的になり、心が明るくなるハズのこの時期、わたしはふと落ち込むことがあるのですが、この1,2週間もそうでした。何となく体調もすぐれず、プールの友達には「なんだかぼーっとしているよ。大丈夫?」といわれていました。そうとは自覚していなかったけれど、昨夜母のことを考えていたときに、これが原因だとわかりました。
明日は母の祥月命日で、あのおそろしい出来事から5年が経ちます。5年前の今頃、母はお風呂から出て、音楽を聴いていたはず、わたしは4,5日の出張から東京に向かっている車の中にいました。家に帰れるので、うきうきしていました。5年前もイイ齢だったのだけれど、帰れば母に会えるというのが、ほんとうに嬉しかった。
翌朝の午前7時20分、中央高速双葉SAまで帰ってきたわたしは、急に身体からちからが抜けて、ちょっと気分が悪くなりました。疲れたのだと思いました。午前8時44分、下高井戸あたりを走っていたわたしに、電話をくれた母。4分間の会話。わたしは、疲れて不機嫌に受け答えをしてしまったのではないかと後から思うのですが、話した内容は思い出せても、わたしがどういうふうな口調で母に話したか、思い出せないのです。これが母との最後の会話になり、この11分後、母は交通事故で帰らぬ人となりました。
家族みんなが、午前8時55分という時間に向けて、何にも知らずにそれぞれのこと、あるいは家族のための時間を過ごしていました。その日の夜には、家に帰って、もちろんみんなが顔をあわせるハズだったのです。
わたしが鮮明に思い出すのは、母が鍵を閉めて出て行った家に、わたしが最初に帰ってきたときのことです。母が閉めた門扉と鍵を開け、玄関に入ったら、わたしのスリッパがそろえて置いてありました。居間のテーブルには、母のわたし宛の手紙。彼女の家用のめがねも置いてありました。出掛けに替えたもの。わたしの帰る時間に合わせて、お風呂が沸かしてありました。
そういうことを思い出したらきりがありませんでした。疲れて帰ってくるだろうと、わたしの為に、いろいろなことが準備万端整えてありました。
わたしも、去年までとは違い、気持ちもずいぶん変わったので、今年はメソメソせずに乗り切ろうと思っていたのだけれど、やっぱりまだ、無理かも知れません。
かなわないこととは思いつつも、毎日のように、ママに会いたいと思ってしまいます。
明日は母の祥月命日で、あのおそろしい出来事から5年が経ちます。5年前の今頃、母はお風呂から出て、音楽を聴いていたはず、わたしは4,5日の出張から東京に向かっている車の中にいました。家に帰れるので、うきうきしていました。5年前もイイ齢だったのだけれど、帰れば母に会えるというのが、ほんとうに嬉しかった。
翌朝の午前7時20分、中央高速双葉SAまで帰ってきたわたしは、急に身体からちからが抜けて、ちょっと気分が悪くなりました。疲れたのだと思いました。午前8時44分、下高井戸あたりを走っていたわたしに、電話をくれた母。4分間の会話。わたしは、疲れて不機嫌に受け答えをしてしまったのではないかと後から思うのですが、話した内容は思い出せても、わたしがどういうふうな口調で母に話したか、思い出せないのです。これが母との最後の会話になり、この11分後、母は交通事故で帰らぬ人となりました。
家族みんなが、午前8時55分という時間に向けて、何にも知らずにそれぞれのこと、あるいは家族のための時間を過ごしていました。その日の夜には、家に帰って、もちろんみんなが顔をあわせるハズだったのです。
わたしが鮮明に思い出すのは、母が鍵を閉めて出て行った家に、わたしが最初に帰ってきたときのことです。母が閉めた門扉と鍵を開け、玄関に入ったら、わたしのスリッパがそろえて置いてありました。居間のテーブルには、母のわたし宛の手紙。彼女の家用のめがねも置いてありました。出掛けに替えたもの。わたしの帰る時間に合わせて、お風呂が沸かしてありました。
そういうことを思い出したらきりがありませんでした。疲れて帰ってくるだろうと、わたしの為に、いろいろなことが準備万端整えてありました。
わたしも、去年までとは違い、気持ちもずいぶん変わったので、今年はメソメソせずに乗り切ろうと思っていたのだけれど、やっぱりまだ、無理かも知れません。
かなわないこととは思いつつも、毎日のように、ママに会いたいと思ってしまいます。
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