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フランス料理の最終目標はデザート2007年09月12日 19時35分37秒

今朝も雨が降っていたので、いつもは自転車で行く駅までの道を、バスで。今日は、年に4回だけある、お料理教室の日でした。本当は毎月のクラスに行きたいけれど、残念ながら、振り替えができないので、年4回のクラスに在籍しています。365日のうちの4日なら、なんとかできると思って。

教室は10時半から神楽坂なので、その前にひと仕事しようと、朝早く通勤電車に乗ったのですが、どうやら立ったまま寝てしまい、それも、まわりの人に迷惑をかけることなく、一瞬深く眠ってしまったようで、ふと目を覚ましたとき、一体、これから仕事に行くのか、帰りなのか、わからなくなってしまいました。地下鉄だったし。そして、自分の降りる駅に着いたのに、ぼんやりしてて、降りそびれそうになりました。なんか、今日はアブナイぞ、という感じのいちにちのスタート。おととい10日に書きましたが、
http://serukuru.asablo.jp/blog/2007/09/10/1789435
わたしのここ3ヶ月ほどの勤務は、ちょっと大変かも。

(そう考えると、思い当たるフシがたくさんあって、特に携帯メールがむちゃくちゃになっています。あて先を間違えてメールすること数件。送信したと思ったメールが、未送信ゾーンにあることに1週間後に気付いたとか、受け取ったメールを忘れていたりとか。)もうちょっと、寝なければ。

というわけで、今日は、料理教室。わたしのお料理の先生脇雅世(わきまさよ)さんは、教えてくださるお料理がおいしいことも当然ですが、わたしはそのお人柄が大好きです。いつも元気で笑顔で、家庭人のあたたかみのある料理なのです。このお教室に行くと、本当にほっとできたり、料理で愛情を感じられたり、料理へ愛情を込めることで人への愛情を感じられたり。料理って、こういうものなんだ、と毎回思います。

試食中の会話で、偶然ですが、先日書いたわたしの義叔母の古い実家だった旧伯爵邸の話になりました。http://serukuru.asablo.jp/blog/2007/09/06/1779135
わたしは、残念ながら、義叔母にとって、どういう思いなのかわからなかったので、この邸の話をあえて義叔母にせず、また彼女もしなかったので、実際、どういうところなのか知らなかったのですが、先生や他の生徒さんたちの話を傾聴し、いろいろ想像できました。そういう意味で、今日は義叔母とかかわれたようで、ちょっと嬉しかったです。

今日はとうとう、気力がなくて、プールは行かないことにしました。

**そこで、今日も義叔母の話の続きをもう少し。(5回目)

(1回目)http://serukuru.asablo.jp/blog/2007/09/04/1771713
(2回目)http://serukuru.asablo.jp/blog/2007/09/05/1775259
(3回目)http://serukuru.asablo.jp/blog/2007/09/06/1779135
(4回目)http://serukuru.asablo.jp/blog/2007/09/07/1779390

9年前の夏、義叔母は、叔父と二人で旅行中の栃木県・那須で倒れ、救急車で地元の病院に運ばれました。強運なことに、義叔母の病気の分野では名医といわれているドクターがいる病院へ、しかも、そのドクターが当直の日に。母とわたしが駆けつけたとき、義叔母は意識がなく、ICUベットに横たわり、一見して、わたしはもう、義叔母とは話ができないんじゃないかと思いました。いまでも、そのときの彼女の、細くて白く、たよりな気な、けれど美しいと感じた脚を思い出します。ドクターは、義叔母の病状を説明してくださるにあたり、義姪であるわたしにも来るように告げられたので、正直なところ、わたしは重大なつらい説明をされると思い、腰から下の力が一気に抜けました。レントゲン写真を見ると、素人でも良くないことくらいはわかりました。泣くまいと思いながら、目にいっぱい涙がたまってきたのを覗き込むようにドクターは見て、「しかしね、まだ、方法はあるんですよ。イザとなったら、あたま割って、治療しますから。」(手術するという意味。)これを聴いて、どんなにほっとしたことか。
その時、わたし、思いました。義叔母の命の危機を感じて、わたしは何が悲しかったのだろうと。もっと生きていて、もっと話がしたいと、なぜ思ったのだろうと。そして、ひとつの答えを見つけました。生まれたときから(というか、たぶん生まれる前に母のおなかにいるときから)義叔母は、わたしを知っていて、とてもかわいがってくれました。大きくなってから、両親や親戚の叔父たち、義叔母たちにそのときのことをたくさん聴きました。でも、肝心な彼女と、その話をしていない、わたしの思いや、彼女への感謝の気持ちも伝えていないことに気付いたのです。このまま、義叔母にもしものことがあったら、もう、伝えられない。

わたしは、義叔母の回復をひたすら願いました。と言っても、信心のないわたしのこと、なにに祈ったのか、とにかく、願いました。そして、その願いが通じ、義叔母は意識を取り戻し、自分で歩けるまでに回復し、東京の病院に転院できる日が来ました。

ドラマみたいで恐縮ですが、続きは後日に。