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自分の存在意義2007年09月01日 23時59分59秒

「でもって、おねーちゃん、ゆうべはドクターの言うとおり、『無理しないで』泳いだんでしょーねぇ。」と、朝、妹から電話がありました。
わたし「いや、わたし、考えたんだけど・・・・・・」というのが言い終わらないうち、
妹「うーん、何にも考えなくていいよ。無理したのね<`ヘ´>」
わたし「しました(^_^;)。考えたのよ、『無理』っていう言葉がなんであるかを。無理はするものだから、あると思ったんだけど。」
妹「ちがうよ<`ヘ´>。無理した人が、これはやっぱりしないほうがよい、と思ってできた言葉です!大体、検査して結果が出るまでは、やっぱりどう考えても、おねーちゃんのやってることは合理性に欠ける。」

とても冷めた言い方をすれば、わたしに万が一のことがあっても、たいして影響のでる人はいません。ひとり者というのは、こういうことです。わたしを家政婦代わりにしている人は、そういう意味で困るでしょうけど。というわけで、ある程度のむちゃはします。逆に言うと、独身者が、社会でいまひとつ信用されないのは、こういうことですね。

でもまあ、妹の気遣いは、悪い気はしませんでした。

さっき、プールの帰りに、今日はぼんやり運転していて、車をちょっと高めの縁石に乗り上げてしまいました。おまけに、後輪でもやってしまった。相手が物でよかったです。わたしの車は、かなりキズがついてしまって、ちょっとショックでした。運転中いちばんしてはいけない、考え事、ボンヤリすること。泳いだ後って、わたしはボンヤリしてしまうことが多いので、気をつけようと思います。これはわたしの冷めた考えに対する警告かもしれないし。

誰か助けてと言いたいけど2007年09月02日 23時37分46秒

朝からボンヤリと頭が痛かったのですが、今日はプール仲間が区民大会で泳ぐので、それを応援しに、お昼前に近所のスポーツセンタープールへ。

友人の個人種目1種と、ファミリーリレーと、男子200メートルフリーリレーだけ応援しました。フリーリレーはダントツ1位で、嬉しかった。けれど、初めてみた50m長水路プール。わたしは今日出ませんでしたが、こんなプールで泳いだら、ゴールが遠すぎて、大変そう。

やっぱり頭痛がひどいし、吐き気もして、言われてみれば胃の(まだわからにけど)調子も悪く、すぐ胸が痛くなるので、今日はそれだけ応援して帰ってきました。何だか、プールの仲間には、ロクに話しもできず、笑顔も作れず、かえって行かないほうがよかったかもしれなかったです。

帰って来て、久しぶりに片頭痛の薬を使い、自室にエアコンをかけて、アイスノンをして、3時間ほど安静にしていました。頭痛も吐き気もなんとかなったころ、夕飯の買い物。でも、これはちょっと無理だった。フラフラしながら、お米を買うのは大変でした。

あ~、少しラクになりたい。

コワ~いおはなし2007年09月03日 23時18分34秒

おとといプールの帰りに、夜、車を走らせていて、高めの縁石に乗り上げたと書きました。今日の朝、そこを通ってみたら、しっかりとわたしの車のペイントらしき跡があったのですが、そうでないものもたくさんあり、みんなやっているんだと思いました。今日見てわかったのですが、20cm以上あるような縁石で、こんなところを乗り上げ、しかも、後輪までやってしまったにしては、車のキズはたいしたことはなかったかも。

でも実は、この2日間、わたしを悩ませていることもあります。こんなことってあるんでしょうか、あの、乗り上げたときの感じが、一日のうち何度かよみがえってきて、コワい思いをしています。いちばんコワいのは、ベットに入って、眠りにつくまでの間の、浅~い眠りのとき。あの感じが身体のなかから起こって、恐ろしさのあまり声をあげ、自分の声で目が覚めます。こういうのをフラッシュバックというの?

とてもおかしいのは、5年ほど前、AT車で単独事故を起こし、バックトゥーザフーチャーのデロリアンみたいに、車止めを乗り越え、その瞬間に車が飛んで、柵を壊し、その先にあった電柱に激突して、また戻ってきたときのことは、こんなふうに思い出さないのに。このときなんて、シートベルトをしていたのが奇跡的な状況で、していなかったら、わたしは明らかに今、ここにいませんでした。でも、これは、コワかったけど、思い出さない。

おとといのときは、人っ子ひとりいない細い道で、ガスの丸い大きな施設(?何というのかな)があって、夜で暗くて、おまけにたったひとりで、ホントに怖かったという思いが強かったのかもしれません。
いずれにしても、車での事故が多いわたしんち。心して運転しようと思います。また、プールの帰りは、もう、あそこには行かないことにしました。

そうそう、昨日、カウンターの絵柄を初秋ヴァージョンにしてみました。いかがでしょうか?

義叔母にとってこの世は「夢」だったのか2007年09月04日 23時36分01秒

休日出勤に休日出張が続いたわたしは、今日は平日だけど代休で家にいました。

お昼前に郵便受けをのぞいたら、見覚えのある叔父の字で葉書が届いていました。イヤな予感が的中。ひと月ほど前に、義叔母の亡くなったことを伝えるものでした。この叔父は、わたしを幼い頃からかわいがり、3人いる叔父のなかで、いちばん親しんでいる叔父です。別に仲の悪い親戚でもなんでもないのに、国文学者である彼は、とても変わり者だから、病気の義叔母にもしものことがあったら、きっと親戚には知らせず、彼の家族だけで義叔母を見送ってしまうんじゃないかという予想はしていました。

叔父の葉書には、義叔母は家族に見守られ眠るように入寂したこと、今後一切のセレモニーの予定のないこと、香料供花また来宅の心配無用とのことがありました。そして、義叔母と出会ったすべての人への感謝と、義叔母に出会ったことを嬉んでほしいこと、それぞれがそれぞれのやり方で、義叔母に「サヨナラ」をしてほしいとありました。また、夫である叔父は、義叔母と次の世も一緒に暮らす約束をしており、待ち合わせ場所も決めてあるから安心してほしいとありました。

わたしは義叔母にとても思い入れがあって、3人いる義叔母のなかで、いちばん好きな義叔母でした。「義」とつけるのが申し訳ないくらい。けれど、今日のわたしは冷静でした。この葉書を読んで、わたしは取り乱しもせず、すでにこういう日が来てしまっていたのだ、わたしをかわいがってくれた「れいこおばちゃん」にはもう会えないのだと、しずかに考えました。まだ実感がわかないからか、あるいは、ささやかながら、わたしにやれるだけのことはやったという気持ちがあったからか、涙もでませんでした。しかし、心の中は乱れていました。

さすがに食欲もわかず、コーヒーを口に流し込んで、近所でない、ちょっと遠いスーパーに、自転車で出かけました。少し頭の中を整理したかったのです。

わたしはこういう日がくることを8,9年前に予想し、「サヨナラ」の準備みたいなことをしていました。それでも叔父のいう、それぞれのやり方で「サヨナラ」するという意味をぼんやり考えながら、自転車を走らせました。そのとき、ふと口について出てきた歌。それは、井上陽水の『少年時代』でした。義叔母が好きだった歌。わたしには歌詞がわからないところもあったけど、それはどうでもよかった。そしてその歌を歌っているとき、突然、次から次へと、涙がこぼれてきました。義叔母にはもう会えない悲しさと、別れのときを与えてくれなかった叔父に対するちょっとした怒りの入り混じった気持ちでした。これが、本当に心からするお別れの仕方なのかもしれない、けど、やはり知らせてほしかったと。今までこういうことはなかったけれど、今日は、往復とも道に迷って、ぜんぜんわからないところにでてしまいました。こんなことってあるんだと思いました。そして、帰り道、わたしの口をついてでてきたのは、どういうわけか、フォスターの『夢路より』という歌でした。

明日から、わたしが好きだった義叔母のことを、少しずつ書いてみようと思います。

駄句に震えた朝2007年09月05日 23時59分59秒

昨夜はまんじりともせず、亡くなった義叔母のこともだけれど、叔父のことを考えていました。とても仲のよい夫婦で、60歳をすぎても新婚夫婦のようだった二人ですから、叔父の落胆はどんなだったろうと思ったり、それとは別の、不安な感じがわたしを支配していました。

朝、叔父からの葉書をもう一度読みました。そこには国文学者らしく、彼が駄句という俳句も詠んでありました。内容は、次の世もまた一緒に暮らすことを約束した彼らが、三途の川のところで夕涼みをしながら待ち合わせするという句だったのですが、それをあらためて読んだ瞬間、あることに気づいたわたしは急に不安になり、しばらくそっとしておこうと思った叔父の携帯に、震える手で電話をかけました。電話に出て、出て!という強い思い。叔父の声が聴こえました。叔父の声が聴こえた安堵感で、泣きながら、挨拶もできないまま、

わたし 「おじちゃん、わたし、しばらくそっとしておこうと思ったんだけど、今朝、急に、心配になっちゃって、電話したの。」声も手も震えていました。

叔父 「葉書が着いたんだね。」

わたし 「あのね、あのね、『夕涼み』って、何年か先のことだよね?何年か先に、おばちゃんと待ち合わせするってことだよね?」と、子供みたいにしゃくりあげ、泣きながら、それだけ言うのが精一杯でした。

わたしの言う意味をすぐにわかった叔父は、笑みさえ浮かべたような落ち着いた声で、

叔父 「そうだよ。何年か先のことだよ。5年か10年か15年かもっとか、わからないけど、何年か先のこと。おまえ、心配してくれて、ありがとなー。」

わたしがいくつになっても、いつも彼はわたしのことを子ども扱い。子どもに話すようなやさしいいつもの口調で話されて、わたしもやっと安心しました。

夏の季語の「夕涼み」。2人セットでしか考えられないような夫婦だったので、その夕涼みを、叔父は無理やり今年にするんじゃないかと、わたしは早合点してしまったのでした。叔父がそんなことするハズないのに、バカだ、わたし。しかし、彼も学者だから、もっと深い意味があるんだろうけど、わたしみたいなワカランチンに送ってくる俳句としては、確かに駄句。

朝はこんなスタートをしました。夜は叔父の方から電話があり、ゆっくり義叔母の話しをし、あらためて、もう、義叔母がこの世にいないことを認識し、その寂しさに涙しました。

そしてもうひとつ。こんなときに、こんなことを思うなんて、不謹慎以外のなにものでもないという思いをしながらも、あの世でも一緒に暮らす約束をし、三途の川で待ち合わせなんていう強い絆で結ばれる人を、見出す努力をしていないわたし。自分の思いを優先し、人の思いに気付いていながらそれを拒絶しているわたしは、そうやって、自分にとって大切なのかもしれない人ときちんと向き合う努力をしていないのかもしれないと、何だかそんなふうに思えてきました。

泳ぐと動悸は齢のせいか2007年09月06日 23時59分59秒

義叔母が亡くなって、それ自体は悲しいことで、今朝も泣き腫らした目で起きました。

今日は父の病院付き添いの日なのですが、妹に頼みました。別に無理して行けば行かれないこともなかったのですが、今月は父の通院が2回あり、おまけに、自分自身の検査やなにかで3回も行かなければならないので、無理しないで妹に頼むことにしたのです。わたしは、先日、車を縁石に乗り上げて、かなりキズつけたと書きましたが、キズはよいにしても、車の下をこすっているような気がして、心配していました。このことは、義弟と妹だけには話していたのですが、今朝早く、義弟が来て、父にはわからないように車を見てくれました。まあ、大丈夫ということでした。というわけで、その大丈夫な車で、妹が父を連れてきました。

わたしは仕事をつつがなく、でも元気なく。今日は台風が近づいているということで、仕事も早目に切り上げ、電車の動いているうちに家へ。だんだん台風も近づいて、雨も風もひどくなってきました。

こんなとき、何も泳ぎに行かなくてもよかったのですが、このごろ、水泳を始めてだんだんついてきたはずの体力が、どうも落ちてきてしまったように思っていて、自分では、それはいやだと抵抗した気持ちになっています。それで、それを毎日確かめたくて、無理に泳ぎに行っています。毎回、「やっぱりダメだ。体力落ちてる。」と落ち込むのですが。で、今日も。苦手なバックのクラスに出たら、25m泳ぐだけで、ハアハアしてしまう。しかもバックなのに。それと、ロングスイムのクラスにも出ました。25mづつですが、個人メドレーの順で7セット。もう、死ぬかと思った。・・・・・・しかし、やってみてわかったのは、バックとブレストを何とかしなきゃ、個人メドレーは泳げないということでした。たぶん、小学生よりひどい泳ぎです。でも、これだけ泳いだから夜、眠れると思ったのですが。

帰り道、いつものスーパーに寄ってお買い物をしたのですが、ずぶ濡れになってしまったので、うちに帰って、もう一度お風呂からやり直しでした。


義叔母のこと***************
“れいこおばちゃん”と、わたしが親しみを込めて、そう呼んでいた彼女は、昔風にいえば、旧伯爵家に生まれた人で、いまでも彼女の実家だったところは旧○○伯爵邸として残っています。叔父(母の弟)はよく、「昔だったら、オレなんかと結婚できなかった」と言って、彼女をとても大切にしていました。そういう生まれの義叔母でしたが、たしかに、おっとりゆっくり話すところなどは、生まれを感じさせたけれど、あとは、ごくごく普通の、というよりはむしろ、たぶん、貧乏学者の叔父と結婚したばっかりに、苦労も人並みにした義叔母だったと思います。
わたしが生まれた11日後に、彼女にも男の子(わたしのいとこ)が生まれました。わたしはどちらの親戚にとっても初孫で、れいこおばちゃんも、自分の子どもと寸分たがわず、わたしをかわいがってくれたそうです。離乳食のころ、わたしは食欲のない子だったらしく、母が、「何も食べてくれなくて困るのよ。」と言うと、れいこおばちゃんは、わたしをすっと預かり、自分の息子のために作ってあった煮魚の銀むつを、わたしにも食べさせてくれたそうです。また、わたしもよくそれを食べたそう。だから、お店で銀むつをみると、時間に余裕のあるときは、若い日の義叔母と母を思い、今でもよく煮ていました。これからは、義叔母に感謝しながら、煮ることになると思います。そして、このことが、わたし自身には記憶のないことですが、わたしの一番小さいときの話題の一つで、わたしにとっては義叔母が出てくる話のいちばん始め。宝物です。

秋来ぬと目にはさやかにみえねども2007年09月07日 18時44分19秒

今日は少し早めの時間に更新することにしました。

昨日の夕方から、だんだんひどくなってきた空模様。プールから帰る頃はすでにどしゃぶりで、強風、ずぶぬれだったと書きました。その後、家に帰り、昨夜はいつもより早めの0時ごろにはベットに入ったのですが、頭上の出窓に当る雨風の音や、時折、家が揺れるほどの強風で、ちょっとコワくて、なかなか眠れませんでした。一晩中、こんな感じで、おまけに、金属音がするたびに、庭に置いてある25年ものの物置が壊れたんじゃないかと心配になり、自室2階の出窓から頭だけ出し、ずぶぬれになりながら物置の様子を覗くこと数回。壊れたって、この時、どうにかできるものじゃないし、するつもりもないのに、やっぱり気になる。おかしなモンです。で、結局、こんなことを繰り返しながら、朝方5時をむかえました。

昨日の様子から、今日、みんなが出勤するのは困難だと思った職場のボスは、今日は全員自宅勤務を命じました。そういうわけで、今日中のノルマをこなせばよかったわたしは、完全に気が緩んでいた証拠に、夜、眠れなかった分、朝寝坊も、大寝坊。たぶん、こんな寝坊は学生時代以来初めて。10時半!!自分でもびっくりでした。

しかし、こういう生活は良くないですね。食欲はなく、目覚ましにフルーツグラノーラにミルクを少々かけてほんの一口、口に放り込んで、あとは、昼食も食指が動かず抜き。コーヒーばかり。胃が悪いのにブラックで飲むものだから、ついに嘔吐。そして、胃の薬をコーヒーでまた飲む始末。めちゃくちゃな一日でした。

義叔母のはなし***************

義叔母もコーヒーが大好きでした。生まれのよい彼女だからでしょうか、わたしみたいに、ガンガンのブラックではなく、ミルクたっぷりのカフェオレ風のを好みました。社会人になってから、ときどき思い出したように義叔母のところを突然尋ねました。叔父夫婦は、池袋から西武池袋線で2つ目の椎名町(しいなまち)駅近くに住んでいるので、池袋に仕事などで用事があったときは、ほとんど行きました。昼間なので、叔父は仕事で不在ということがわかっていても。

「おばちゃん、コーヒー飲まして。」

「出張で青森行った。はい、お土産。」

「駅近くに新しい喫茶店できたみたいだね。コーヒー飲みに行こうよ。」

「すごく眠い。30分寝かせて。」

「おばちゃん、チョー、おなかすいた。何か食べさせて。」

「その手編みのバッグ素敵。わたしにも作って。」

こうしたわたしの突然の申し出に、いつも拒むことなく、にこやかに応えてくれる人でした。他人が見たら、義叔母とわたしの方が、血のつながりがあると思ったに違いないくらい。いま、ほんとうに寂しいです。

また水泳がイヤになるギリギリ2007年09月08日 23時05分06秒

今日は、特記することもなく、いちにちをつつがなく。

夜はいつものようにプールへ。苦手な飛び込み練習を15分くらい、バタフライレッスンを1時間、マスターズ1時間。バタフライをきちんと習い始めて1年がすぎたのに、いくら習っても、思うように泳げず、ちょっと凹んでます。マスターズが終わったら、さすがに、フラフラでした。プールから、用心せずに、いきなり上がると、貧血を起こすときのように、足が震え、立ちくらみするので、2時間半の水中は、わたしにとって無理なもかも。

お洗濯が終わったようなので、今日はこれを干して、少しはやいけど、寝まーす。義叔母のことは、もうちょっと書きたいこともあるので、また後日に続けさせていただきます。

今の時間2007年09月09日 22時22分27秒

週始めの前日の、貴重な早い時間。来週からの仕事に備えて、思い切って、早いですが寝まーす。

料理はやめた2007年09月10日 22時14分33秒

昨夜は久しぶりに、アマゾンで買い物をしました。どうしても早く入手しなければならない本があって、そのついでにマイカートを見たら、欲しいと思っていた本やCDが山ほど入っていて、このごろちょっとアマゾンを見る時間が惜しくていたので、とりあえず、欲しかった本とCD1枚だけ注文しました。
CDは、井上あずみの『ビリーヴ』で、前から欲しかったのだけど、5月に姪っ子1号の運動会があったとき、準備体操の曲として使われていて、その日のうちにカートに入れました。この曲は素敵だけれど、こういう曲をいいと思うなんて、以前のわたしだったら、考えられない。(強気で勝気で、いまよりもっとイヤな女だったと思う。)まあ、とにかく、アマゾンを見られただけでも、昨日は時間に余裕があったほうでした。

今朝は4時すぎに目が覚めてしまって、これ以上ごろごろしていてもきっと眠れないと思って、5時前に起きてしまいました。きっと昨夜早く眠れたから。

このごろのわたしは、週のうち、自分のベットで寝ているのは、一体何時間くらいなんだろうと思うほど、仕事に追われていて、これ自体はありがたいことだと思っています。仕事のことはあまり書かないで、プールで泳いでいる話しばかりなので、きっと仕事をおろそかにしているって思うでしょう。で、だいたいの標準的な一日を書いてみると、

朝はだいたい6時ごろには家を出るようにしています。身支度して朝食とって、お弁当作って。で、職場に7時すぎに着き、お仕事始め。16~17時の間に退社できると嬉しいほう。大急ぎで家に帰って、夕食の準備ができるときはして、食べられるときは食べて、19時から20時半の間にはプールへ到着。多いときは2時間半、少ないときは1時間ほど泳いで、プールを22時過ぎに出ます。でもって、家に帰り、家事をして寝る、あるいは、職場に戻って仕事の続きです。仕事は3~4時に終わらせて、やっぱり家に帰る。で、1時間でも寝る・・・・・・。職場に戻るのは、週に3日ほど。でも、けっこう呆然とします。フレックスのわたしは、土日に仕事してもよい分、平日にフラフラできたりもして、その点とてもよいのですけど。あと、この間に、出張もあります。大体福岡です。出張はちょっと嬉しいこともあって、乗り物に乗っているあいだは、寝られることです。こういう生活を続けていると、大体、精神面の病気になったりする人もいるのですが、わたしは、一応、学生時代からやりたかった仕事に就いていて、たとえ稚拙なものであっても、やりたいと思うことなので、あまり苦にはなりません。最近思うのですが、仕事というのは、もちろん、生活していくうえで、必要不可欠なんですが、ちょっと贅沢をいうと、それだけではできないですね。自分が社会に貢献していると感じられることと、仕事をすることで、自分自身が成長したり、精神面で得るものがないと、続けられないような気がします。

さて、そういうわたし、大好きな料理をしたい反面、こんな生活状態で物理的にする時間を見出せず、また、父とわたしの嗜好がまったく合わず、しかも、父は食に関心が全くない人なので、いままで、四苦八苦していました。家で作ったものが大好きなわたしと、外で買ったおかずならなんとか食べる父。いつもいつも葛藤でした。わたしの大好きな料理だって、作っても、遠慮もなく、『それは嫌いだ』といわれたときの悲しいこと。父が好きなものを作っても、ほとんど箸をつけない彼。それで、わたし、実を言うと、料理をするのが苦痛になってきていました。で、考えて、しばらく料理をあまりしないことにしました。そういうことにしたら、ちょっと気が楽になりました。
そういうわけで、今日の夕飯は外食。でも、正直言って、もう飽きてしまっていて、自分の分だけは明日は作ることにしました。というのは、どーしてもロールキャベツが食べたくて・・・・・・こればかりは買ったのでは絶対おいしくなくて。わたしのロールキャベツは、あっさりのコンソメ味です。でも、これでほんとにやめるつもり。